昭和50年11月25日 朝の御理解



 御理解 第44節
 「狐狸でさへ神に祭られることを喜ぶといふではないか、人は万物の霊長なれば死したる後神に祭られ神になる事を楽しみに信心せよ。」

 神になることを楽しみにという信心は、どういう信心をとして頂いたらよいか、まあ短的にいうて神になる事がいわば願いであり、目的であるのですから、私共が愈々神心を頂かして貰う、神心にならして貰う、修行を本気でしなければならない、と言う事につきる訳です。今日は私は或る方の事をお願いさして頂きよりました、その方は非常に正義感が強いですから不正直な事、でない事を見るともう腹が立ってたまらん。
 いわゆる正義感自分が正しいそして、まあ男気が強いというか、正義感が強いもんですからぐずぐずした事やら、例えば口では甘い事を言いながら、する事は反対の事をしている。と言った様な事を聞いたりすると腹が立つ、ですから如何にも正義感が強いという、非常に不幸せですね、正義感が強い故に世の中を眺めては、それこそ悲憤慷慨しなければならんいつもいらいら、もやもや腹が立つと言う事になるのですね。
 その方に私は今日参って来たら、その事をだから伝え様と思います。あなたの正義感というものをまず捨てて、本気で神心を頂く稽古をしなさいよ、と言うてあげようと思います。そんなら神心になる事はどういう様な事か、私は仏教で慈悲を説き、キリスト教は愛を説くと言われとります、金光教でもいろいろに言われます。金光教では真とか真心とか、実意とかというふうに申しますけれども、私はギリギリ金光教のご信心はです、私は神心だと思うです。
 もう神心の中には今申します、実意も真心も真も、慈悲も含まれとるです、そういう私は広い範囲のものをになると思うです神心というのは、だからその神心を愈々つのらせ、愈々神心を頂くことに精進しとるのですから、そのまま神になる事が楽しみになる、死したる後神に祀られる事が愈々有り難い楽しい事になる訳ですね。私は今日のここの御理解は、もえ神に祀られる事を楽しみにと仰る事は、結局神心が愈々神心しめる、まあ例えて申しますとです。
 昨日の御理解から頂きますと、人間は神の氏子だから痛い痒いがあってはならないし、それこそ牛馬の事に至るまで人事百般何なりとも、実意を以て願えという御理解でしたね、ですからその実意を以て願えと言う事の内容を、いろいろに頂いたんですけれども。昨日例の通り、昨日の御理解を先生方皆ここに集まって、研修した時に結局どこが一番口にならなけりゃならないかというと、人間は神の氏子ぢゃと仰るのですから。私は神の氏子で御座いますというのが一番口なんだよ、ここを分からせるいわば御理解だったね、というて話した事でした。
 人間は神の氏子ぢゃからと仰る、ハイそうです私はあなたの氏子で御座いますと言う事が、真から解り出来なければ、それこそ甘える様なともうしますかね、牛馬の事に至るまで何なりともといはれるその願いがね、本当の血の通うた願いにならないのだね、ですから根本的にそこを解らせて貰う。言うなら大神霊の事に対して小神霊といはれる訳であります。教祖はここん所を狐やら狸やらをねいうならば霊長ではないのです。人間は万物の霊長これは、大宇宙を大神霊と見て小神霊である我を悟れと言う事です。
親神に対する子神であり大天地に対する、私共は小天地大天地そのものを、小型ながらも備えておるのが人間です。ですからそこの所をです、いはば自覚と言うものが万物の霊長という自覚が出来て、愈々既に私の心は生まれながらにして、神の霊が頂けておるのだ、というのが自覚です。それが万物の霊長といはれる人間がです、いつの間にかいうなら我情我欲がとものうて、我情我欲がこびりついた様になって、霊長所か犬畜生にも劣ると言う様な人面獣身、人面獣身と言う事人間の面はしとるけど。
 心はもう夜叉の様だ獣の様だと、言う事になり果てておる人に対してもです、いはばと言う事です。人間は神の氏子なればです、だから元に還ってです、いうならば赤子の様になって、自分の神霊というものを清めて行かなければならない、それが神になると言う事の信心、清まれば清まる程有り難うなって来る。清まれば清まる程有り難うなって来る、楽しくなって来る、このまま例えば、あの世この世を境に致しましても、所謂神に祀られることが出来、神になる事の出来る事の自覚をね。
 いやその確信を持てることになる。ただ金光様の信心をしとれば、私の方は改式しとるから、霊神様にお祀りしてもらえるという時期なのです。だからから神になる事を楽しみというのは、神心を愈々頂かせて貰う事に、焦点をおかねばならない。私は今日或る方の事を願わせて頂いて、その方は非常に正義感が強い、正義感がかえって自分が苦しい思いばっかりしなければならない。如何に良いようであって、正義感を捨てきって、そして神心にならして頂く事が、どういうものを見ても聞いてもです。
 昨日の御理解の中で月次祭の晩に九大線を利用して、お参りして来る方が丁度降りたら焼き芋屋さんが居った、親先生が焼き芋がお好きだというので、このポツポしよるとを持って行こうと思うて買うて来なさった。丁度お祭り寸前ですから食べるわけにはいかず、まあ温めてお祭りが済んだら頂こうと思うて、誰れも来い彼も来いというてそのお芋を頂こうと思うて、切って見た所がどっこいその中はもう赤くなってしまって、いわゆる焼けじけであったという、もう勿体ないから少し宛て食べております。
 頂いておりますけれども、わたしが何年前の私でありましたらですね。こういうものを商品として売るとはもう、もう禄な奴ぢゃなかねと思うでしょう、食べもされんものを売るてんなんてんと思うでしょう、所が私はその唐芋を切ってから瞬間感じた事は、本当に田主丸の駅前であのそれこそ、うらぶれた様子で焼き芋を売っている。もうよか芋が焼けた時には買い手がないそれを貯めておいて、買い手があったからそれを売ったんだという、そう言う所に何かしらんけれども。
 哀れを催す様な感じがしてその焼き芋屋さんの事をいのらずには居られなかったと言う様な事こを、昨日御理解を説いてたらね、もうおかげ頂きましたと言うのです。ここでそしてから言うなら肝心要なところは有り難いと言はんな、親先生が焼き芋屋の事を言ってね、いのられた所が有り難かったというのです。今日の御理解を頂くと、私の神心に感動したのではないでしようかね。
 だから例えば正義感の強い人ならば、こう言う事をする焼き芋屋に一言言はにゃ出来ん、こう言う事では皆迷惑するぢゃないですか、お前もこげな事では信用を落としてしまうぞと、理屈の一つも言はんならん様なのが正義感です。正しい事を正しい事として、というそういう生き方、これでは人間は神にはなれません、どんなに正義感が強くても、けれども本当に私共がです、神心を愈々育てさせて頂こうというと、それこそ仇と思う様な人でも、祈らなければおられない様な心が、神の心です神心です。
 これは昔の誰かの川柳に、論語読み思案の外の文を書き。というのがあります論語読み思案の外の文を書き、というならば論語ども読む人は非常な道徳家であらう、もう本当に人間はこうある事が本当だと言う事は、大いに知っておる人であらう、けれどもこればっかりは思案の外だと、恋は思案の外だと言う事でしょう。その論語読みが恋文を書いているという、事をまあ比喩した事であります。だから私がいつも申しますように、道徳では出来ないというのです。
 道徳であってはいけないと言う事でもないけど、道徳で助かると言う事はないと言う事です。所謂お道の信心はどこまでも、その道徳を越えたもの超道徳なのです。ですから、超道徳であるところの、例えば信心さして頂いとったらです、恋愛というものは、非常に素晴らしい美しいもの、もうこよない有り難いもの、比喩される事がない、一切の事にたとえば御の字を、つけて行こうというのかお道の信心ですから。
 如何にも何か穢らしいもの、不潔なもの不純なものという風なもの。例えば制欲でも御性欲として頂く所に、有り難いと言う事になるのです。そこにどうとくと、信心の違いがあるのです、そういう例えば神心にならして貰う内容には、今申した様なこともあるのです、慈味豊か何ともいひようのない程しの、有り難いものが心の中に育ってくるのです。まずいうならば人間は神の氏子と仰せられるのですから。
 私はあなたの子供ですという、まず自覚が出来なければいけない、ためには私共が霊験所謂おかげを受けねばいけません。成る程親様じゃなあ親神様じゃなあ、親が願い通りのおかげをくれると言う事であったら、それは本当の親じゃないと思う。場会にはだだをこねる様にして、おやつを願うなら、おやつ的なおかげをくれるけれどもです、このおかげをこの氏子渡したら返っておかげにならんと思うときには。
 それをやらないのが親です。どんなに夜夜中にです火のつくように夜、夜中に泣いてもです熱いお湯でお乳をといて飲ませるからというて、泣ききよるからというて熱いお乳を飲ませる親はおりません、どんなに火のつくように泣いてもせかれてもです。やはりフウフウして自分で飲んでみて、丁度良い加減にならなければ、飲ませないのかせ親です、そういう体験をさせて貰うて、成る程親様じゃなあ。
 というその確信が出来その親だ子だという実感をもって、牛馬のことまで願う事が、お道の信心だというのが昨日の御理解でした。まずは神の氏子としての自覚が出来なければならない、そこを万物の霊長といはれるが、万物の霊長としての自覚ができなければならない、それにも拘らず人間の面だけはしとるけれども、心は浅ましいと言う事では霊長の値打ちがない、もう既に霊長じゃない。
 そこで霊長たる所の資格を、信心修行をさせて貰はなければならん、いうならば神心を目指して、日に日に精進して行く事が、お道の信心である。そして自分の心の中に自分で自分の心のような心、ああこれが神の心であらうか愈々この 神心を育てて行く事が信心だと分からせて頂いて始めて、神に祭られる事の楽しみと言う事があると思うです。神に祭られる事を楽しみとする信心とは、そう言う事だと思います。 
     どうぞ。